江戸の象徴「長屋」の成り立ち
このイラストは、今年一月に出版いたしました『江戸の女子図鑑』に描いたもので、当時のワンルーム・アパートである長屋(ながや)でございます。
江戸の町の象徴でもある長屋ですが、実はこれ、江戸初期にはございませんでした。その頃、長屋の建っている場所は「会所地(かいしょち)」と呼ばれる空き地になっておりました。
もともと隅田川沿いの地域は湿地でございました。そこを埋め立て、ます目状につくった道に家を建てました。すると、町々のまん中に未開発の土地が残されます。その空地は共同管理され、ゴミ捨て場などに使われました。ゴミったって、今のようにプラスチックや壊れた洗濯機なんてものはありません。塵(ちり)やら割れた食器やら野菜屑といったものですから、やがて土に帰り、じょじょに埋め立てが進むというぐあいです。
そして、埋め立てから六十年も経った頃、明暦三(一六五七)年に起こった災害が「明暦の大火」です。江戸の大半を焼くという大火事でしたから、大量の残渣(ざんさ)が一気に出ました。それらは新たな埋め立てに用いられ、また、会所地にも捨てられましたので、これによってはからずも、残された土地の埋め立てが完了いたします。
この復興のために近隣から多くの若者が駆り出されました。そして、彼らのために会所地に小屋が作られたのが、長屋の始まりなんだそうです。そんな成り立ちから、長屋の家賃は安く、通りに面した表店(おもてだな)に住む人々は「町人」と呼ばれ町の自治に関わりますが、長屋の住人にはその権利がないなど、立場が異なりました。
会所地と町の区画
江戸の基本区画は六十間四方。周囲が大通りに面する。中央は閉ざされた広い空き地があり、これが会所地。後に新道が通されて小割りにされ、裏長屋が作られた。黒い部分は表店
さて、長屋の作りを見てみましょう。イラストに描かれている部屋が「九尺二間(くしゃくにけん)」という代表的なサイズで、店賃は月に五百文(約一万二千五百円)ほどと格安でした。
土間には「竃(へっつい)」と呼ばれるかまどがあります。竃の前にあるのは「流し台」で、ここで洗い物をすると、下水は表の溝(どぶ)へと流れる、意外に近代的な設備があります。棚の上にある「無双窓(むそうまど)」という開け閉めできる板格子や、向かいの家の屋根にある「天窓」は排煙のためのものです。
土間の反対側に置かれているのは水瓶(みずがめ)です。飲み水は「水売り」から買う場合もありますが、長屋には水道井戸が引かれているのが、江戸っ子の自慢でした。
この四畳半には、家族四人が暮らしています。幼い子が手をかけている「枕屏風(まくらびょうぶ)」の内側には布団が畳んで積まれています。押し入れがございませんから、こうして隔てておくのですね。隣の家には縁側があります。この作りだと風が通るので、まぁまぁ暮らしやすいですが、「棟割長屋(むねわりながや)」というスタイルだと、背中合わせに部屋が作られるため、窓がなく風通しが悪くて大変です。
外を見てみますと、水道井戸の隣にお稲荷さん。そして、その向こうにあるのが「総後架(そうこうか)」と呼ばれる共同便所です。
この絵で生活に足らないものはお風呂ですが、庶民の風呂所有は防火のために禁じられておりました。そこで江戸では一町に一軒は必ず湯屋(ゆや)がありました。風呂に毎日浸かる習慣は、土木工事に従事する人が多かった江戸の成り立ちから生まれたとされます。
善養寺ススム
1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など