『江戸の町とくらし図鑑』より
大名行列と街道
今回のイラストは、信濃国高遠藩(しなのくにたかとおはん)・内藤家(ないとうけ)の大名行列で、二代藩主・頼卿(よりのり)が、初めて自分の領国へ入る時の行列を絵にしたものでございます。
人数は三百六十五人。内藤家は現在の新宿御苑に二十万坪の下屋敷(しもやしき)を持ちます。大名は江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷の土地を与えられ、通常、上屋敷は江戸城の至近にあり政務を行う場所で、少し離れた中屋敷は奥さんや嫡男(ちゃくなん)が住んでいることが多いようです。そして、下屋敷は江戸郊外にあり、隠居(いんきょ)した殿様が悠々自適に暮らしてるような場所です。
「新宿なのに江戸郊外?」って思う方もいらっしゃるでしょうが、江戸時代の新宿は江戸から歩いて第一の宿場でございましたから、もう、江戸ではないんですね。ちなみに江戸弁では「しんじく」と発音します。
新宿御苑が下屋敷なんて、相当大きな藩だったのかというと、石高は三万三千石でして、一番大名の加賀前田家(かがまえだけ)は百二十万石ですから、四十分の一の小さな藩でした。大名行列はその身分に応じた隊列が組まれましたので、加賀藩の場合は最大四千人になったと言われますから、すごいですね。
幕府は関ヶ原の合戦の翌年には、東海道の整備に取りかかりました。そして、百七十年かけて五街道を整備いたしました。これらの普請(ふしん)は幕府自らが行い、領地の藩や村が手伝うという形がとられました。大きな公共事業ですから、周辺の人々はさぞ潤ったことでしょう。しかし、完成した道や宿場の管理は街道沿いの村々の義務となりました。
街道の規格は、五間(けん)(九メートル)幅が標準で、両脇には盛土をして並木が植えられ、道標や「一里塚(いちりづか)」が設置されました。宿場の間隔は、二里(り)から四里です。一里は約四キロで、だいたい人が一時間歩く距離でございます。当時の一刻(いっこく)は二時間ですから、一刻から二刻歩くと次の宿場に着く計算になりますね。
宿場と宿場の間にも、茶屋などの休憩所が設けられましたが、宿場以外での宿泊は禁止されていました。ですから、野宿をしながら旅する一般人はおりません。
江戸中期に長崎から江戸へ旅した、スウェーデンの医師・ツュンベリーは、著書『江戸参府随行記(えどさんぷずいこうき)』に、近隣の百姓たちがまめに街道の掃除をしている、と書いています。面白いのは「公衆便所」で、二、三里ごとに設けられており、とくに女子便所は安心して使えるように工夫されている、とありますから、なかなか近代的でございますね。
女子便所が整備されるというのは、それだけ女性の旅人が多かったことを意味します。しかし、現代と違って衛生上の理由で設置されたのではなく、街道に落ちる枝葉は薪(まき)に、トイレや馬糞(ばふん)は肥(こや)しとして田畑に使うためで、宿場町の商いや茶屋を含め、街道を維持する周辺住民の特権だったのです。
イラストを見ると、先頭の荷物に続いて、箒(ほうき)と塵取(ちりとり)を持った人が見えます。大名が通る際はこうして綺麗にしながら進み、雨が降れば砂や砂利を撒いて水溜りを埋めますので、街道はいつも綺麗だったと、江戸を訪れた外国人は感嘆しております。しかし、いいことばかりでなく、田畑に撒く肥しの匂いは筆舌に尽しがたかったようです。
善養寺ススム
1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など