江戸城天守閣が象徴するもの
『江戸の町とくらし図鑑』より、江戸城。天守下にあるのは大奥御殿
日本の城といえば、天高く聳える天守です。しかし、江戸時代のほとんど、江戸城には天守はなかったのです。
江戸城と言えば、上のように立派な天守が描かれているのが普通ですが、これらは江戸前期の明暦三(一六五七)年以前の姿なのでございます。この年、江戸を大火が襲います。「明暦の大火」と呼ばれるもので、町は三日間燃え続け、外堀の内側のほとんどを焼き尽くす甚大な被害を出しました。江戸城も被災し、天守は灰燼に帰しました。それ以来、再建されなかったのです。
時の将軍はまだ若い四代・家綱。その後見人が三代・家光の異母兄弟である、会津藩主・保科正之でした。この正之が、再建に待ったをかけたとされます。
理由は「天守は戦国時代のもので、今は役に立たないので、資金は町の復興に回すべし」というものでした。これはとても合理的な判断です。何しろ、天下普請(公共事業)を担う、旗本や大名たちも被災していましたから、地上五八メートルという巨大な天守を再建するのは大きな負担です。それが、どれくらいの大きさの建物かというと、現代の銀座通りに建ち並ぶビルより少し高い木造建築だとご想像いただければよいでしょう。
しかし、不思議なのは、復興を終えたあとも、天守の再建がなされなかったことです。何しろ、各藩の城には天守があるのですから、武家の総大将である幕府の城にはない、というのは面子が立たないように思われますよね。
理由として考えられるのは、ひとつは「保科正之の意見をくつがえす者がいなかった」ためです。時代が進むにつれ武家の財政は逼迫して来ますから、必要性が高くないと多額の資金はつぎ込めません。
ふたつ目は「大奥の理解を得られなかった」可能性です。家光の代に作られた大奥はどんどん巨大化し、予算獲得も熾烈になります。大奥はただの女性の園ではなく、政治の裏舞台としても機能していました。将軍の正室は天皇家から、女性官僚を連れて嫁いで来ます。公家文化に天守は存在しませんから、彼女たちがその必要性を感じることはさらに難しかったでしょう。
『江戸の妖怪図巻』より、姫路城に潜む妖怪・刑部姫
ちなみに、天守には誰も住んでいません。エレベーターもトイレも水道もありませんので、暮らしには向かないのです。そのため、姫路城や猪苗代城(福島県)の天守には刑部姫や亀姫と呼ばれる妖怪が棲んでおり、登って来る者があれば化けて出て、追い払われた、という伝説まで生まれました。いかにも、大奥の女性たちには人気なさそうですよね。
そして、三つ目に考えられるのは、「町のために天守を再建しない美談が、政治的に役立った」ということです。資金や人員を集中した江戸の復興で、町はあっと言う間に活気を取り戻し、商業がより盛んになります。それによって訴訟社会になって来ました。そこで、強化されたのが町奉行所などの裁判所です。訴えは庶民同士とは限りません、武士も訴えられましたから、「幕府は庶民のことも考えて政をしている」という印象は、とても重要だったと考えられます。そうすると、江戸城天守は、存在して「武力の象徴」に、存在を消して「政治の象徴」になったと言えるのではないでしょうか。
今も、皇居東御苑には天明の天守台が残ります。皆様もぜひ、江戸城の文献を片手に巨大な石組みの上に登って、天守に思いを馳せてみてください。
善養寺ススム
1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など