妖怪と建築土木の意外な繋がり
皆さんは迷信を信じますか? というよりは、科学では説明できないものに敬意をはらいますか? 今回は妖怪のお話でございます。
▲河童(かっぱ)
目撃談に描かれた《河童》はまるで宇宙人のようだが、怪談に描かれる頃にはキャラクター化している
妖怪と言えば、近頃は子供たちに大人気ですね。実はこの妖怪という言葉は、江戸時代に生まれたものです。それ以前は、土地それぞれに異なる呼び名で、多くはその地方で語り継がれているだけでした。
それが、江戸時代になりますと、土木工事で全国が街道で結ばれ、旅人によって広まって行きました。そして、大自然の中に浮かぶ孤島のような、ちっぽけな村や町は都市化し、自然の驚異は遠ざかっていきました。こうして平和な江戸時代に、怪談は自然の中で生きる知恵から、娯楽的なお話へと変わっていったのです。
やがて、それが集められまして、怪談本が出版され、さらに、キャラクター化され子供の楽しむ本や、双六などのゲームにまで用いられるようになりました。例えば、《河童(かっぱ)》も元々は各地で様々な名前で呼ばれ、姿も甲羅やお皿もなく毛むくじゃらだったりもしました。それが江戸時代に今のようなキャラクターに固定され、妖怪というカテゴリーに収められました。こうして、間接的ではありますが、建築土木が妖怪文化の下地をつくったのです。 もしも、街道の発展や都市化が進まなかったら、世界で最も豊かな妖怪文化は生まれなかったかもしれません。
では、建築土木に関連する妖怪を少しご紹介いたしましょう。
▲鳴家(なりや)
床下から家を揺するポルターガイスト
▲座敷童(ざしきわらし)
各地に様々な伝承がある神様寄りの妖怪
《座敷童(ざしきわらし)
》
座敷童といえば東北が有名ですが、全国に伝承があります。多くは音や遊んでいる姿だけですが、中には悪戯をするものもあり《枕返し》、琉球では《アカガンター》とも呼ばれています。
座敷童が現れる理由として言われるのが、《子殺し》の習慣です。その亡骸は墓地ではなく家の土間に葬られたそうです。子殺しはとても辛いことですが、それでも死後も家族として共に暮らしたかったのでしょうね。ですから座敷童は多少の悪戯はするものの、出る家は栄えるとされ、妖怪でも《魔》より《神》寄りの存在です。
《鳴屋(なりや)
》《家鳴(やなり)
》
▲千貫石堤(せんがんいしつつみ)
子牛とともに堤に生き埋めにされた娘
怪談『太平百物語』では若者が肝試しに入った家がガタガタと揺れ、僧侶に原因を探ってもらうと、付近を荒らしたクマの墓が床下にあったというものです。 これは現代で申します《ポルターガイスト現象》ですね。家の何処かが前触れもなく、キシキシ、ミシミシ、パキン!と音を立てます。江戸の妖怪作家・鳥山石燕の『画図百鬼夜行』には、小さな鬼が家をゆする姿が描かれていますが、元々は音だけの妖怪です。
《千貫石堤(せんがんいしつつみ)
》
江戸時代に宮城県で実際にあった出来事。何度造っても破堤してしまう、灌漑用の溜め池がありました。これを完成させるために、村の娘が《人柱(ひとばしら)》にされてしまいました。銀千貫で買われた娘は、百年奉公として堤に埋められたそうです。その後、夜な夜な鳴き声が聞こえたり、村の子供たちが次々に亡くなるなど不幸が続いたものの、堤は破れることなく村を守りました。ところが、約束通り百年後に堤は崩壊してしまったと、記録されております。
人柱は「不幸を身代わりしてもらう」ことと、「荒ぶる神をもてなし、喜んで帰って頂く」という信仰から来ています。これに「不幸があれば福が来る」という陰陽の思想が合わさっているのでしょう。棟上げ式でお餅やお金をまくのも同じで、「先に損をして、後で福が舞い込むように」だそうですね。現在は《安全管理》が人柱にとって変わっていますが、この理不尽さは当時の人々の安全への願いの強さであったとも言えます。
絵はすべて『江戸の妖怪図巻』より
善養寺ススム
1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など