歴史資料

絵で見る江戸のくらし 15.江戸時代の都市の堀端

文・絵=善養寺ススム

江戸時代の都市の堀端

江戸初期の河岸の想像図。護岸が石や木板で保護されている。中央にあるのが突き抜けの通り

 江戸や大坂は、日本の近代都市の象徴のような街です。その特徴は街の隅々に伸びる堀割りにあります。
 堀割りが重要だった理由のひとつは舟のためです。日本は馬車や牛車(ぎゅうしゃ)などの陸運が発達しなかった国ですが、その代わりを担ったのが水運です。商品を大量に運べる船が、町の奥まで入れたら便利ですよね。
 市街を流れる堀の岸は石組みや木組みになっています。河口近くの川は潮の満干によって水位は常に上下しますから何時でも何処でも荷揚げができるわけではありません。そこで作られたのが、堀端(ほりばた)を階段状にした《河岸(かし)》です。これなら干潮でも荷揚げができます。
 街が発展すると、交通量も荷揚げされる物資も増えます。すると起こるのが交通渋滞と、荷物の置き場不足、そして公共性の維持です。
 江戸前期に出された『江戸市中諸法度』にこんなのがあります。

 一、河岸端に弓の的を置き、射芸を試みてはいけません。
 一、河岸端の小屋や雪隠(せっちん)は早々に撤去すること。
 一、河岸端に積み置く薪は一間(約2m)以上の高さに積んではいけません。

 びっくりしてしまいますが、街中で弓を射る人がいたんですねぇ。それも幕府が問題にするくらいの数だったようです。大道芸の一種かもしれませんが、恐らくこれは、堀端から垂直に伸びる《突き抜け》という道を使って行われていたのでしょう。
 この突き抜けは、町なかから堀へのアクセスのために重要な道です。他のお触れには「突き抜けの堀端は三~四間物を積まずにいつでも開けておくように」と記されたものがあります。同様のお触れが度々出されていますから、堀端がいつも物や小屋で埋まっていたのが想像できます。
 この他に注意を受けているのが、ゴミです。江戸前期には特に、堀端にゴミを山積みにしないようにお触れが出て、荷物の積み卸しの後は、綺麗に掃除するようにとも言われています。また、堀そのものにゴミを捨てる者も多かったようで、これらを禁止する令も出されています。
 では、ゴミはどうしたのかと申しますと、ゴミ船を使って、永代浦や越中島などに捨てに行くことになっていました。面白いのは、現代同様に「夜にゴミ出しちゃだめ」っていうのも指摘されていることです。
 「江戸はリサイクル都市」なんて言われると、すっかりゴミが出ない町なんだと思い込んでしまいがちですが、リユースやリサイクルできないものもやはりあるのです。
 そして、この他に堀には大きな役目がありました。それは、防火対策です。堀が防火帯の役割をして、延焼を防いだり、消火水の供給を担ったりするからですね。ですから、堀端というのは広く空き地になっているのが理想なので、小屋や薪を山積みにしておくことは許されませんでした(とはいっても、やっていたようですが)。
 また、舟の駐禁も取り締まられていて、小舟は1日以内、大きな船は3日以内に荷物を積み卸しして移動するように命ぜられています。これは、町奉行所の廻同心(まわりどうしん)や船方役(ふなかたやく)という役人が見回っておりました。

 
善養寺ススム


1965年生まれ。『江戸の用語辞典』(廣済堂出版)著者。イラストレーター、江戸研究家。江戸時代に育まれた「江戸の間(ま)思考」を研究。その他『江戸の町とくらし図鑑』『江戸の人物事典』『江戸の女子図鑑』『東海道中栗毛弥次馬と江戸の旅』など

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