経済

日本経済の動向

新興国でも「人」が競争力の源泉に「賃金抑制」を終わらせる時期がきた

みずほ総合研究所 副理事長 杉浦哲郎

日本の労働者の賃金は、長期にわたって下落を続けている。2011年の一人当たり名目賃金は1997年の水準を12%下回り、実質賃金も1990年代後半以降に9%下落。賃金抑制は先進国共通の現象であり、著者はその副作用を懸念している。今回は、日本で賃金抑制が続く背景と、厳しいグローバル競争を生き抜くための「賃金抑制からの転換」の必要性について解説する。

労働者の賃金が下落を続ける理由

prescription_jp_1.jpg 日本の労働者の賃金は、長い間下落を続けてきた。2011年の一人当たり名目賃金(所定外、賞与を含む)は、1997年の水準を12%も下回っている。物価変動を除いた実質賃金も90年代後半以降9%下落しており、労働者の生活水準が大きく下がったことを示している(図)。日本ほど顕著ではないにせよ、賃金抑制は先進国共通の現象である。ドイツでは、2000年代前半の労働市場改革によって短期低賃金雇用が増大し、賃金の伸びが鈍化した。米国でも雇用の回復が遅れる中で、賃金の停滞が目立つ。
 背景として、長期経済停滞に伴う労働需給の緩和に加え、低賃金国の生産力拡大に伴い日本のコスト競争力が大きく損なわれたこと、企業収益の悪化に伴う賃金支払い能力の低下などが考えられる。社会保障コストの企業負担の増大も、賃金抑制圧力を高めた可能性がある。
 賃金抑制は、年功序列賃金体系の見直しや能力・実績給の導入、ベースアップの見送りや賃金水準の削減、非正規社員の増大などを通じて行われてきた。それによって雇用コスト抑制が進み、企業は収益力を確保し、財務体質を改善することができた。GDP統計によれば、2001年度から10年度にかけて名目国民所得が5%縮小する中、企業所得は5%拡大した。

「ひょっとしたら大幅に下がる」2つの要因

 これまで原油価格に影響を及ぼす要因として指摘されてきたのは、「原油需給の変化」、金利やマネーの量など「金融情報の変化」、そして「地政学的変化」の3つであった。例えば08年前半までの急騰は、長期の金融緩和を背景に膨張したマネーが、投機なものも含めて原油市場に殺到した結果生じたものと考えられる。
 しかし金融危機以降は、原油価格と株価が同じ動きをしていることが示すように、原油は金融商品化し、景気の先行きに対する期待を強く反映するようになっている。例えば、11年以降の上昇は、世界経済回復への期待の高まりを反映している可能性が高い。それを手掛かりに先行きを展望すると、地政学的リスクの高まりを別とすれば、一部の懸念とは逆に、「原油価格は下がる、ひょっとしたら大幅に」というシナリオを描くことが可能である。

グローバル企業が急ぐ「人材獲得競争」

 しかし一方で、賃金抑制は大きな副作用を企業に及ぼしつつある。最も懸念されるのは、人材の劣化によって付加価値を生み出す能力が企業から失われている可能性である。チームによる業務遂行が多く、個々人の客観的な業績評価が難しい日本では、能力・実績重視の報酬体系が、生産性が高い人材に厚く報いるという本来の趣旨を実現したとは言い難い。その結果、賃金抑制は優秀な人材の意欲を削ぎ、社員の社外流出を招き、有能な若者の入社を妨げている。就活中の学生が企業の賃金水準に敏感なのは、こうした状況を理解しているからでもあろう。
 技術やビジネスモデルの革新による低コスト・大量生産が利益を生んだ時代は過ぎ、グローバル企業はいかに高付加価値な製品やサービスを、しかも迅速に創造するかという競争を戦っている。韓国や台湾の識者と議論すると、独自の技術や新しい産業、製品・サービスを生み出すことが急務との主張をよく聞く。彼らは、サムソンやフォックスコンのビジネスモデルは時代遅れになりつつあると言う。中国をはじめ新興国も、高付加価値産業への転換を急いでいる。そのような成長モデルの転換を支えるのが優れた人材であることは疑いなく、世界では人材獲得競争が進行している。しかし日本では長い賃金抑制時代の下で、企業の付加価値創出力を支える人材が失われつつあるのではないか。別の角度から見れば、賃金カットによって短期的なコスト競争力を確保したことが、高付加価値を生む事業やビジネスモデルへの転換を遅らせ、企業発展の足を引っ張っているともいえる。

米企業は労働者の処遇を高める戦略にシフト

 厳しいグローバル競争を生き抜くために、高過ぎる賃金を切り下げる必要があったことは事実である。金融危機のたびに資金調達に対する不安が高まった結果、企業存続のための流動性確保が経営の優先課題となり、そのために雇用コストや設備投資を抑制しなければならなかった事情も分かる。しかしそれが、日本企業の付加価値創出力を劣化・劣後させているとしたら、今後は単なる賃金抑制から抜け出して、優秀な人材を惹きつける賃金水準・報酬システムを再構築する必要があるのではないか。  米経済誌『FORTUNE』によれば、米国の高成長企業(Fortune 500)には、うまく労働力を活用して高い付加価値を効率よく生み出しているという共通点がある。そして、米企業は今後、労働者の処遇を高める方向に進むと予測している。日本企業も、賃金抑制から抜け出す時期に差し掛かっている。

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