経済

日本経済の動向

「労働者はコスト」という発想を変えよデフレ脱却を支える「賃上げ」の条件

みずほ総合研究所 副理事長 杉浦哲郎

新しい総裁・副総裁の下で、日銀が大胆な金融政策を打ち出した。
政策目標を短期金利からマネタリーベース(現金+日銀当座預金)に変え、
その残高を2年で2倍に増やすことなどを通じて、2%のインフレを実現するという。
今回は、こうした流れをデフレ脱却、経済再生につなげる重要な鍵となる「賃上げ」の条件について解説する。

■ 日本の名目賃金は15年間で約12.7%も下落

 日銀が新しい総裁・副総裁の下で打ち出した金融政策の「レジーム・チェンジ」を、市場は好意的に受け止めている。株高、債券高(長期金利低下)、円安が急速に進み、不動産市場にも回復期待が高まっている。海外の中央銀行や投資家の評価もおおむね高いようだ。ただ、それによって2%インフレ(デフレ脱却)や経済再生が近い将来に実現すると考える向きは、必ずしも多くはない。その背景には、デフレの主因が不十分な金融緩和ではなく、長期かつ大幅な賃金下落とそれに起因する需要の減退であるとの認識が強まってきたことがある※1
 実際、日本の名目賃金はこの15年間で12.7%も下落した。また、先進国の中で賃金が下落しているのは日本だけであり、だから日本だけがデフレなのだという議論にも、説得力がある(図参照)。そのような賃金の重要性を認識したが故に、安倍首相は企業経営者に賃上げを要請したのだろう。

■ 賃上げへのトレンド転換は容易ではない

 しかし、日本の賃下げトレンドは多くの要因が重なり合って生じたものであり、転換するのは容易ではない。
第1に、グローバル化とデジタル化が加速する中で、豊富な低賃金労働者を抱える新興国の生産力が拡大し、また生産・事務の機械化、効率化が進んだことが、雇用・賃金を押し下げた(経済要因)。
 第2に、90年代後半の金融危機とその後の不確実性の高まりに直面した日本企業は、財務体質を改善し手元流動性を積み上げるために、雇用・賃金を抑制した。収益拡大を求める株主からの強い圧力も、それを増幅した(市場要因)。
 第3に、終身雇用慣行が残り、転職市場など雇用の流動性・柔軟性が不十分な中で、企業の労働コスト削減圧力は賃金に偏り、労働者(特に正社員)も雇用確保と引き換えに賃下げを甘受してきた(制度要因)。
 第4に、以上のような環境の下で、企業は労働力を付加価値を生み出す源泉ではなく、抑制すべきコストとして捉えがちであった。それは、グローバル化や技術革新、需要の多様化・高度化に対応した高付加価値ビジネスモデルへの転換の遅れによって増幅された(企業経営要因)。
 実際、安倍首相の要請に応じて何社かの有力企業が賃上げを行い、それが大きく報道されたにもかかわらず、全体として見れば賃上げの動きが広がっているわけではない。春季労使交渉の中間集計では、日本経団連(1.91%、4月5日発表)、連合(1.80%、4月2日発表)とも、主要企業の賃上げ率は昨年度実績を下回っている。

■ 労働力を「成長の原動力」と捉え直そう

 では、どうすれば賃金は上がる(上げられる)のか。企業が労働力を事業革新・企業成長の原動力として捉え直し、その能力と実績に見合った報酬を実現することが不可欠だ※2。実際、雇用リストラなしに成長を続けている企業は、労働者の能力とやる気を十分に生かしている。
 それを支える環境として、労働市場を変えることも必要だろう。転職市場が厚みを増し、労働者のスキルと企業のニーズとのマッチングが進めば、それ以前は非労働力化するか非正規社員というステータスを受け入れるしかなかった労働者の正社員としての道も開けていくのではないか。大手電機メーカーをリストラされた経験豊かなエンジニアが、中堅・中小企業で職を得てその能力を発揮し、企業の成長に貢献しているケースも少なくない。
 折から、新興国では賃金が大きく上昇し、技術革新や事業環境の変化は、新しい生産技術や起業、ビジネスモデル革新の可能性を日本にもたらしつつある。こうした変化の中で賃上げの動きが広がる時、日本は成長力を取り戻し、デフレから脱却できるだろう。


※1『デフレーション』(吉川洋、日本経済新聞出版社)
※2『賃金抑制を終わらせる時がきた』(Management Flash 2012/5/18)

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