はじめに
寺社仏閣そして神殿は、荘厳で恒久的でなければならない。地震で崩れたり火事で燃えたりしたら、人びとは、神様・仏様の祟りがあると思ってしまう。木の国、日本の代表的寺院建築は東大寺金堂(図1)。石の国、古代ローマの代表的神殿建築はパンテオン(図2)であろう。
東大寺金堂は、57m×51m×51mHと世界最大級の寺院建築。758年完成、1567年の戦乱で焼失し、1691年に再建された。
一方、パンテオンは120年頃に建造された、内径43mの今もって世界最大の無筋コンクリート・ドーム。30本の石柱はエジプト産の大理石。ルネッサンスの巨匠ラファエロが墓所に望んだほど、壮麗な建物である。
近年コンクリートの耐久性が話題になっているが、パンテオンは驚くべきことに1900年間も聳え立っている。セメントの材料は、わが国にも無尽蔵にある火山灰と石灰。さらにイタリアは地震国。このように「現代の建設技術者は、古代ローマに学べ」とも言えるほど素晴らしい建築物なのだ。
筆者は瀬戸大橋や明石海峡大橋の建設に携わった技術者でもあるが、10年ほど前に初めてパンテオンを見た時に「当時と同じ材料や機械を使って造れと言われても出来ないな!」と思ったほどの傑作。古代ローマの勉強を始めた、きっかけとなった建物である。
この連載では、東大寺が木造で、パンテオンが石・コンクリート造のように、なぜ古来、日本に木造構造物が多く、ヨーロッパ、特に古代ローマは、石造構造物が多かったのかの謎を解き明かす。
その理由を筆者は、江戸時代以前は、欧米のような壮絶な戦いが少なく、人びとが総力戦をするため都市を城塞化・高層化・不燃化する必要がなかったことだと考える。すなわち城下町で済んだのだ。
江戸時代は火事が多発したにもかかわらず、鎖国により欧米の情報・技術や科学的思考の流入が遮断された。倹約令を頻発した時代に、裕福な商家が耐火家屋を造ることを分不相応と、幕閣が嫌った。参勤交代などによる諸藩への締め付けが、廻り回って幕府の財力を弱め、不燃化都市改造のための資金を捻出できなかったのだろう。
戦国や江戸時代の人々の技術力は、来日した宣教師などが驚嘆したほど高度であったので、決して技術水準の話ではないのだ。
この推論を証明するため、本連載では日本は主に戦国・江戸時代、ヨーロッパは古代ローマを中心として、以下の順序で話を進める。
第1に木材・石材、コンクリートの材料が、日本及び古代ローマにあったのか。すなわち「建設材料の問題」。第2に木造と石造では、建設時の楊重設備(クレーンなど)が大変違う。「楊重設備の問題」である。第3に都市や国の防衛、特に火に対する防御が、構造物の種類などに影響を与えていないのか。すなわち「都市や国の防衛の考え方」。
第4に当たり前のことではあるが、木造は火事に弱く、石造は強い。江戸や古代ローマの「都市の火災と防火対策」がどうであったのか。ここで特記するのは、ポルトガルの首都リスボンの地震を考慮した町造り。1755年にマグニチード8.5〜9クラスの大地震に襲われ、人口28万人のうち約2割が、津波・建物倒壊・火災で亡くなった。その復興に振動実験まで行い、耐震性の高い「麗しのリスボン」を再建したのである。
第5に同じ規模の構造物なら、木造は作り易く、石造は造り難い。したがって技術力(能力)がなければ、石造りは作れない。同時に外敵などへの防御が不要ならば、石造にする必要はない。すなわち「日本(戦国時代)人の能力と、日本の置かれた環境」。第6に木造の街を石造の街に改造するには、為政者の力が必要である。「江戸時代の為政者の力」はどうであったのか。第7にこれらを踏まえ、「木の国と石の国のインフラ建設の考え方」を明らかにする。
そして最後に、歴史には「if、もしも」はないが、古代ローマにコンクリートがなく、戦国・江戸時代にコンクリートがあったら、歴史はどのように変わったであろうかを推測してみた。荒唐無稽かもしれないが、古代ローマは500余年も、現代のEUを凌ぐ大領土を維持できなかっただろうし、一方、日本は東アジアに覇を唱えていたのではないだろうか。楽しい想像である。
それでは、木の国・石の国のなぞ解きの旅へご案内しよう。
1.古代ローマと日本の建設材料の話-木材・石材・コンクリート-
木造、石造構造物の建設材料、木材・石材・コンクリートは、古代ローマや戦国・江戸時代の日本はどのような状況であったのかを紹介する。
木材の話
帝政期(紀元前27年~476年)、100万人都市となったローマには、カラカラ帝が市街地の南に建てさせたカラカラ浴場を始め11ヵ所の大公共浴場テルマエ、約900ヵ所のバルネアという中小公共浴場があった。ローマ風呂の名があるように、入浴が大好きなのだ。一方、同じ100万人都市江戸は、銭湯が約600ヵ所。カラカラ浴場は、同一時に1,600人、1日6,000~8,000人も収容できる大浴場。したがって1日7トンもの木材が燃料として使用された。毎日、ローマ市内で大量の木材が燃やされるほど、森林資源は豊かであったのだ。
コンクリートの話
コンクリートは帝政ローマの時代、パンテオンやカラカラ浴場・コロッセオなど数多くの構造物に使用された。セメントについて紀元前1世紀頃の技術者ウィトルーウィウスは『建築書』に「自然のままで驚くべき効果を生ずる一種の粉末がある。これはバーイエ一帯(ナポリより西に約15km)およびヴェスビオス山の周囲にある町々に産出する。これと石灰および割り石との混合物は、他の建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる」と記している。実際、岸壁などの水中コンクリートに使われていたのだ。
ちなみに近代セメントは、1824年にアスプディンが発明した、焼成によるものである。
コロッセオは外壁含め全体で約10万m3のトラバーチン(石灰華)の石造り。内部は同量程度のコンクリート。驚くべきことは基礎に高さ6m、幅31mの楕円形コンクリート基礎を設けている。建設地が谷間で、もとネロ帝の黄金宮の池となっていた処で、軟弱地盤対策である。トラバーチンの産地はローマの東25kmのチボリ。したがって古代ローマには、木も石もコンクリートも充分にあった。
石造とコンクリート造の比較
古代の首都ローマは、石の街とともに、コンクリートの街であった。何故コンクリートが多用されたかといえば、石造よりコンクリート造の方が、はるかに容易に造れるからである。何でも楽なほうが良いのである。例えば、図3に示すアテネのパルテノン神殿の石柱建設。石造の場合、石のブロックを積み上げるため大型クレーンが必要であり、ブロックの端面は接合のため、高精度に整形がなされていなければならない。
一方、コンクリート造の場合、図4に示すように、型枠はレンガ。現代のように型枠を締め付けるセパレーターがないので、コンクリートは少量ずつクレーンで運搬・打設。固まったら、レンガ型枠を上方に継ぎ足し、コンクリートの打設を繰り返せばよいのである。石造では熟練の石職人と大型クレーンが必要であるが、コンクリート造では、煉瓦職人と普通作業員、そして小型クレーンでよい。どちらが大量生産に向いているか、自明であろう。
ではわが日本はどうであったのか。古代や中世の中心地、奈良・京都・大阪は山が近く、石材は比較的容易に得られた。国会議事堂の外壁となっている御影石の名前の由来は、大阪と神戸の間の地名である。
我が国へのセメントの導入は幕末。最初のセメント工場の操業は、明治8年の官営深川セメント製造所である。日本には火山灰や石灰は、無尽蔵にあるのに、なぜセメントを造ることが出来なかったのだろうかと思う。当然、日本でも古代ローマでも、石よりもコンクリートそして、木のほうが取扱い易かったのは間違いないのだが。そして人間は外的刺激や脅威がなければ、楽な方に流れる傾向があるものだ。
次回は「楊重設備と、都市や国の防衛の考え方」を紹介する。
参考文献
●『ウィトルーウィウス建築書』
森田慶一訳注。東海大学出版会。1979年
●『水道が語る古代ローマ繁栄史』
中川良隆。鹿島出版会。2009年
●『交路からみる古代ローマ繁栄史』
中川良隆。鹿島出版会。2011年
●『娯楽と癒しからみた古代ローマ繁栄史』
中川良隆。鹿島出版会。2012年
●『秀吉と文禄の役。フロイスの『日本史』より』
松田・川崎編訳。