はじめに
前回までに江戸とヨーロッパの火災と防火対策を説明した。
今回は戦国・江戸時代の日本人の能力と、置かれた環境(風土)について紹介する。
6.戦国・江戸時代の人々の能力と、置かれた環境の話
防火建築の推進も進まず、大火を繰り返した江戸。同じ過ちが、関東大震災における東京や、太平洋戦争の焼夷弾による各都市の大火災につながった。「火事と喧嘩は江戸の華」と開き直った江戸の人々や戦国時代の人々の技術力。そして日本人の置かれた環境を紹介する。
まず戦国・江戸時代の人々の能力。戦国時代の海外との交流のエポックは、1543年の鉄砲、1549年のキリスト教の伝来、及び朝鮮出兵(1592年~1598年)である。
鉄砲生産
織田と武田の長篠の戦(1575年)の帰趨を、鉄砲が決めた。川勝平太訳『鉄砲を捨てた日本人』は「16世紀後半に日本人が合戦で用いた鉄砲数は、当時のヨーロッパのどの国が持っていた鉄砲の数よりも多かった」と記している。日本はゼロから初めて、40~50年間で世界一になる技術力があった。丁度、明治維新後の発展、敗戦後の復興と同じなのだ。
その理由は、鉄を取り扱う刀鍛冶の技術と、改善・改良に抜群の能力を発揮する日本人の資質である。当時の鉄の鍛造技術は、世界一。そして外来の鉄砲の不具合を、日本人の探究心や器用さが改善してしまったのだ。
16世紀の日本の人口は約1,200万人と、当時の神聖ローマ帝国等よりも少なかったが、鉄砲製造能力は世界一であった。しかしヨーロッパでは、火縄銃(図21)から点火方式がライターと同じ原理の燧石銃に進化したが、江戸時代、鉄砲はほとんど進歩しなかった。
建設技術
フロイスは二条城・安土城と聚楽第の建設を見ている。
信長が将軍足利義昭のために建設した二条城について「少なくとも2、3年はかかると思われたものを、信長はほとんどすべてを70日間で完成した」と記し、急速施工に驚いている。約400メートル四方の敷地に2重の堀や3層の天守閣を備える城郭造の邸宅。金箔瓦が使用された、豪壮な殿舎であったようだ。
次に安土城。「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩しえるものである」と絶賛している。石垣には安土近辺の流紋岩を使用した。
秀吉が作った聚楽第(図22)について「それらは疑いもなく壮大かつ華麗で、見事に構築されており、木造建築としてはこれ以上望めないように思えた。・・・しかも更に驚くべきことは、それらの家屋がほとんど無数と言える場所を占めているほど広大であるのに、たった6カ月間で落成したことである」と驚嘆している。
いずれにしろ信長や秀吉の築城技術に驚いている。建物は石造りではないが、建設技術は、世界に誇るものであったのだ。
キリスト教の布教・禁制
キリスト教の布教とともに、西洋事情の紹介ということで、宣教師の話は人気があった。武士のみならず、町民や農民まで知識獲得意欲が高く、フロイスは「彼らの習慣は、我々の習慣ときわめてかけ離れ、異様で、縁遠いもので、このような文明の開けた、想像力の旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんな極端な対称があるとは信じられないくらいである」と記し、当時の日本人の優秀さを驚きの目で見ている。1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令まで、キリスト教布教は盛んに行われた。これ以降、キリスト教禁制、鎖国の流れは次回紹介する。いずれにしろ戦国時代の人々の知識欲は凄かったのである。
朝鮮出兵
朝鮮出兵は豊臣秀吉の「唐・天竺まで攻めのぼる」との誇大妄想が発端である。兵站(へいたん)の軽視のため、15万人の遠征兵士のうち5万人が飢餓で死んだという。
フロイスは「日本人はもともと他国民と戦争することは訓練されていない。支那への順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼ら(遠征軍)には全く知らされてはいない」と戦争以前の問題が多いことを記述。さらに朝鮮での冬の進軍に「日本軍は雪や氷の上を歩きなれない上に、高麗人や支那国人が用いている厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草鞋を履いているので、その苦痛は言語に絶し…凍傷にかかった」と記している。
ともかく行き当たりばったりで、散々な結果となった。まるで旧日本軍を描いているようだ。文禄の役の侵攻を図23に示す。次の慶長の役はソウルまでも進出できなかった。戦闘能力は高かったが、戦術・戦略は劣っていた。これはフロイスが記述している「対外国との戦争経験が乏しい」ためである。経験がなければ臆病なぐらいに、知略を巡らす必要があるのに、兵隊の防備の節で記したように「行け行けどんどん」の思想が邪魔をしたのであろう。
秀吉はスペインのマニラ総督に朝貢を要求し、わが国は「東アジアの盟主」との自負を持っていた。さらに島原の乱を鎮圧した徳川幕府は、宣教師の本拠地マニラ討伐を計画していたほど、武力に自信を持っていたのである。
これらのことから、当時の日本人が、技術的にそして意欲は、ヨーロッパ人に劣る状況ではなかった。石造建設技術を発明することは出来なかったが、ヨーロッパの建設技術を真似することは十分可能であったのだ。その証に石橋は、中国或いはポルトガルから伝来の技術により1634年長崎に造られた眼鏡橋を手本として、九州に386橋かけられた。しかし本州には、僅か18橋しかない。
風土(環境)と民族性
「人間は環境の動物」とよく言われる。したがって風土(環境)の影響を受けた日本民族の資質はどのようなものであったのだろうか。火事に無力な木造建築で我慢し、耐火性のある石造を思いもつかなかったのだろうか。
その解明の糸口となる、和辻哲郎著『風土』に砂漠の民(ペルシャ・アラビア・エジプトなど)、モンスーン域の民(日本・インド・中国など)、ヨーロッパ人の気質と気候・地勢の関係について次のように紹介している。
砂漠の民について「乾燥の生活は、水を求める生活で、自然は死の脅威を持つ。その脅威と戦いつつ、人間は草地や泉を求めて歩く。そこで人間は生きるために、他の人間の脅威とも戦わねばならない。自然や他の団体との闘いで勝つために、人は団結しなければならない。生きるためには対抗的・戦闘的関係のみが存在する」と記している。砂漠の民は過酷な自然の中、生きるために団結し、他部族などと戦わなければならなかったのだ。メソポタミアを故郷とする古代ペルシャの西進は、その風土に由来するのである。
日本は「我が国の特徴の湿気は、人間に『自然への対抗』を呼びさまさない。それは、陸に住む人間にとって、湿潤が自然の恵み(農作物)を意味する。さらに暑熱と結合した湿潤は、しばししば大雨・暴風・洪水・旱魃というごとき荒々しい力となって人間に襲いかかる。それは人間をして対抗を断念させるほど強大な力で、人間をただ忍従的・受容的とする。日本は四季の変化が著しいので、人間の受容性は速い移り変わりを要求する。大陸的な落ち着きを持たないとともに、甚だしく活発、敏感である。それゆえに疲れやすく、持久性もない。それは新しい刺激・気分の転換等の感情の変化によって癒される」と記している。
自然は厳しいが、農耕や漁業を一生懸命すれば、食べることについては困らなかったのだ。他者から収奪する必要がなかったとともに、大いなる力、自然や権力に従順な性向を造ったのであろう。「地震・雷・火事・親父(権威)」がそれを表しているように、強敵には刃向わず、従う気質なのだ。
ヨーロッパ、特に地中海沿岸は「夏の乾燥、冬の湿潤により、日本の農作業で必要な草取りや害虫駆除の仕事が格段に少ない。自然が人間に対して従順である。しかしギリシャの気候は、夏の激しい乾燥のため、樹木の生育や小麦の生産にもあまり適していない。葡萄、オリーブ程度である。そこで人口が増えると、食糧不足となり、他部族の収奪、或いは海に出て植民市を建設する。当初は海賊である。一度海に出れば、奪掠のみが生存の基盤であり、生活全体が争闘となる。彼らは土地を占領すると、要害の場所に石垣をめぐらして共同の敵に備えた」と記している。
和辻の言説は、砂漠の民は対抗的・戦闘的で団結が強いこと。ヨーロッパ人でもギリシャのように食糧不足になると、当初は略奪の民となり、ポリス(城郭都市)を造り、次に防備を固める、と記している。ヨーロッパはギリシャ等の一部を除き、気候は穏やかで、豊饒の魅力あふれる土地であった。このため砂漠の民やゲルマン・バイキング等北方の民族が幾度となく侵入した。日本と同じ島国である英国は、豊穣の地。鉱物資源にも恵まれていたので、ヨーロッパ本土と同様に、数多くの異民族の侵攻を受けている。
したがってヨーロッパでは、防衛のため城郭都市造りが不可欠であった。人口が増えれば上方に増築せざるを得なかった。したがって為政者を中心に、外敵侵入に対して戦うと共に、火という大敵に立ち向かわざるを得なかった。
一方、わが国は近隣の東アジアの民族にとって魅力のある土地ではなかったので、蒙古以外、外敵の侵入はない。このため城郭都市を造る必要はなかったのだ。人口が増えれば埋立や荒野の開発と、平面的に広がればよかった。また火という大敵を、諦めるべき天災とみなし、強固に刃向う性向がなかったのだ。逃げ場のない城郭都市の有無。すなわち火に対する恐怖が、石造の街の必要性の有無に繋がったのである。
参考文献
●『回想の織田信長。フロイスの日本史より』松田他編訳。中公新書。1973年
●『秀吉と文禄の役。フロイスの日本史より』松田他編訳。中公新書。1974年