はじめに
前回は多民族と単一民族の国家を統治するための施設を説明した。今回は外敵侵入を考えたライフラインの紹介、木の国・石の国のまとめ、コンクリートの有無による世界史の変化を推測した。
9.外敵侵入を考慮したライフライン
古代ローマは紀元前390年ガリア人、410年西ゴート族により首都ローマが占領された。一方で覇権国家として、EUを上回る領土を、500年間も保持した。このため異民族の侵略に耐えられる強固なライフラインの構築に力を注いだ。一方、わが国は元寇でも、本土を占領されたことが無いので、その必要性は少なかった。具体的に水道と道路で説明する。
古代ローマの水道・道路
首都ローマの水道は、共和政期の紀元前312年完成したアッピア水道から始まった。帝政期(紀元前27年~476年)には11本の幹線水道があり、水源地から市城壁まで総延長500kmの水道が、1日100万m3の清冽な水を送っていた。幹線延長の97%がトンネル・橋で、覆付き。雨も入らないので、外敵による毒物混入等の妨害を困難にしていた。水道橋(図27)は谷を越え、ローマの丘の頂から、各所の水槽や浴場にも大量の水を供給した。ローマ水道がなければ、公共浴場は出来なかった。水道は娯楽施設同様、帝国の隅々まで行き渡っていたのだ。
図27 クラウディウス水道橋
図28 ドンナスのローマ街道
次に道路。紀元前312年完成のアッピア街道を始めとして、ローマ街道は総延長15万kmもあった。8万kmにも及ぶ幹線道路は石で舗装し、基礎にセメント等を使い、強固に造られていた。山岳地帯では車両が通行可能なように緩勾配にしたり、延長1kmにもなる橋梁やトンネルも建設したりしている。したがって大型投石器等の重い軍事物資の運搬や、通信馬車・早馬の走行が、多少の風雨でも可能であった。図28に示すアオスタ渓谷のドンナスでは、堅い岩盤を切り開き、フランス・スイスとイタリアを結ぶアルプス越えの街道が作られ、1800年のナポレオンのイタリア遠征にも使われた。
街道は目的地に対して複線方式で、天災や、敵軍による妨害があっても使用可能とした。したがって約30万人のローマ軍団で、広大な領土を治めることが可能であった。ローマ帝国の人口は4,600~6,100万人(14年頃~164年頃)と長谷川他著『古代ローマを知る辞典』に。奥村著『火縄銃から黒船まで』に、江戸の武士階級の人口は7%と記している。この数字は武士の家族を含めているが、古代ローマの兵員比率は、江戸時代に比較して、圧倒的に少ない。街道整備のおかげなのだ。
江戸の水道・道路
江戸上水は、最盛期6本の幹線上水(図17)があったが、前記したように、享保7年、4上水を廃止して、神田・玉川上水のみとなった。総延長68kmで送水量は1日34万m3。問題はローマ水道と違って開渠であり、江戸市中への給水は単線。また市内給水は木管や上水井戸で、耐久的でない。外敵による上水への妨害は、考えてもいなかったのだ。
江戸街道は、山岳地帯で緩勾配にする試みは少なく急傾斜地(東海道箱根越え等)以外、石畳舗装はなされなかった。そして街道は、基本的に荷車の使用は禁じられていたし、多くの大河に橋が架けられていなかった。
「越すに越されぬ」と歌われた大井川。寛永3年秀忠・家光上洛の折に駿河大納言忠長が浮橋を建設。祖法に触れると怒りをかった。それから、慶応4年の東征軍による仮橋が造られるまで、240余年架橋はなかった。しかしこの間、大井川を凌ぐ「暴れ川」の神通川・九頭竜川等には、幾多の流失や損傷を乗り越えて浮橋が富山藩等の努力で架けられていた。領民の利便を考える藩主と、德川家の安泰のみを願う幕閣の考え方に、大変な違いがある。
図29 江戸幕府設置の関所
図29に示す様に、幕府は53箇所の関所を設け「入鉄砲・出女」と、江戸への鉄砲の搬入と、参勤交代により人質となった大名奥方の江戸脱出の防止を図った。また河川においては、物資の移送も監視。幕府は5代将軍綱吉の時代までに、約150もの藩を改易した。幕府は関所を設けたり、改易を行ったりと、強権政治。こうなれば自衛のため各藩は、藩境に関所と同じ機能の口留番所を設け、監視を行うのは、当然である。例えば仙台藩は24か所も設けたのだ。
信長・秀吉は関所を廃止して、物流の活発化を図ったが、江戸幕府は、関所を設け徳川家維持のため治安・警察機能を強化した。そうすると高速物流が可能な石畳街道は有害。物流が滞っても木の発想の街道で十分と考えたのだ。
終わりに
ヨーロッパが石の国であり、わが国が木の国であった理由を取り纏めた。
第1に、住居構造の習慣
外敵の侵入が多いヨーロッパでは、住民(戦闘要員)を守るため、高層化・耐火防御性に優れた石造の城郭都市が不可欠であった。一方、わが国は外敵の侵略の恐れが少なく、城下町に住む人々の多くは兵員とならないため、お城のみの防御を考えればよかった。そのため城下町は、耐火性に劣っても、建設の容易な低層木造家屋となった。
第2に、国の統治者の能力
ヨーロッパは多民族国家のため、国の統治に優秀な指導者が不可欠であるが、わが国は単一民族のため、江戸時代は凡庸な為政者でもよかった。
職を求め、貧者が多く集まる大都会は、強権を使わねば、木造のスラムになることが多い。その結果、石の国ヨーロッパでは大火を反省して、為政者は建築基準を制定し、耐火性の高い石造の町を強制した。木も石もない干潟の上に造られたベネチアでさえ、多大の労苦を厭わず、材料を遥々運び建設したのだ。
一方、江戸では「火事は天災」と言った将軍家光や、「上水道が地脈を分断するのが大火の原因」の説を取り上げた将軍吉宗がいた。このようなトップがいれば、明暦の大火を経験しても、為政者(松平信綱等)が江戸城の火事対策を優先し、民家の防火対策は二の次。足を引っ張る「瓦屋根禁止令」を出す始末。信綱は天草の乱鎮圧の総監として、平戸の石造り商館を見ているのに、である。司馬遼太郎著『覇王の家』に「日本国そのものを三河的世界として観じ、外国との接触を恐れ、唐物を警戒し、キリシタンを魔物と見、世界史的大航海時代の中にあって、外来文化のすべてを拒否」と記している。太平洋戦争時に鬼畜米英・敵性外国語と叫んだように、300年後も余り進歩していなかったのだ。
第3に、お家大事と新規嫌い
建設工事費は材料運搬費の比率が大きい。コンクリート造は、木造建築に比べ建坪当たりで3〜4倍重いので、一般的にコストは高い。徳川家維持に一生懸命、祖法大事で、新規嫌いの幕閣では、道路舗装や長大な橋梁・荷役岸壁等による物流の効率化なぞ考慮外。物流効率が悪く、クレーンもなければ、石造構造物は非常に高価で、経済的に成り立たないのだ。
ちなみに幕閣に科学的精神があれば、石造りは無理でも、土蔵造の町を作り「火事と安普請の木造住宅」の悪循環を断ち切ることは可能であった。江戸が2階建土蔵造の町になっていたら、耐火建物と幅広い街路が出現。後世の「木と紙の家。ウサギ小屋」という汚名は無かっただろうし、歴史文化財も数多く残っただろう。惜しいことをしたものだ。
コンクリートの有無による世界の歴史の変化
古代ローマのセメント材料は、我が国にも豊富にある火山灰と石灰。わが国に漆喰はあったが、セメントは幕末に導入。この節では、もしコンクリートが古代ローマに無く、戦国・江戸時代に有ったら、歴史はどう変わったか推測した。
古代ローマ
和辻は『風土』に「ローマが世界国家になれたのは、水道のお蔭」と記している。それにはコンクリートの発明が大きく影響している。古代ローマにコンクリートがなければ、水道も公共浴場、円形劇場や円形闘技場等の建設も進まないし、軍隊の移動に不可欠な強靭なローマ街道建設も困難となった。帝政ローマは500年間も維持できなかったであろう。
ローマ帝国の約6倍の領土を有した蒙古帝国(1206年〜1368年)は、わずか160年で幕を閉じた。蒙古軍は抜群の軍事力で領土を広げたが、それを維持する術を知らなかった。偉大なるインフラ、そのもとはコンクリートである。
日本
織田信長が本能寺で死なず、あと20年位生きたらどうなったか。
信長は火攻めを多用し、火の恐ろしさを理解していた。『信長公記』に「天正6年、安土城下でお弓衆宅から出火。原因は妻子を尾張に置き、単身赴任。同様の単身赴任者が120名おり、彼らの本宅を焼き払わせ、強制的に妻子を引越しさせた」と記してある。徳川将軍と違い信長は、「火事は人災」を理解し、防火対策を強制したのだ。
新しいもの、建設工事大好きの信長は、フロイスの言う「木造建築が火事や大砲に弱いこと」をよく理解し、石造やコンクリート造建築を進めていただろう。楽市・楽座を開き、関所を廃止した才覚をもってすれば、鎖国なぞありえなかった。
フロイスが「庶民に京都での馬揃えの見物や、安土城完成時の数日、城内の見学を許した」と記すように、人々の人気を取ることも忘れなかった。このような信長は、ローマ並みのインフラを全国に造り、人々を喜ばせたのでは。娯楽と憩いの文化が16世紀末日本で、花開いたのではないだろうか。
フロイスは「毛利を平定し、日本66か国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服」と記している。鉄砲と戦国武士の勇猛さ、信長の知略があれば可能であったろう。信長は征服地の民衆に圧制を行うほど馬鹿ではない。きっとインフラの建設で、人びとを安らげたであろう。その結果、東アジアに長い間、覇を唱えることが出来たのでは。筆者の見果てぬ夢かもしれないが。
SPQR技術士事務所 中川良隆
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