歴史資料

木の国・石の国のインフラ

Episode3 〜 大都市の火災と防火対策の話(江戸の街)〜

SPQR技術士事務所 中川 良隆

 

はじめに

前回は木の国・石の国の楊重設備と都市や国の防衛について説明した。今回は江戸の火災と防火対策の話をする。

4.江戸の火災と防火対策の話

1306_18_infra_01.jpg 火事が多いので江戸っ子は「火事と喧嘩は江戸の華」、「宵越しの金をもたない」と粋がっていた。その江戸の火事と防火対策は、どのようであったのだろうか。
 黒木著『江戸の火事』は「日本橋は明暦3年から安政5年までの202年間に10回も焼け落ちた。歌舞伎座の中村座と市村座は明暦3年以来185年間に33回も全焼した。京都の島原は寛永以来一度も全焼していないのに、江戸の吉原は元吉原の時代に2回、新吉原になってから19回、合計21回も灰になった。恐らくこれ程の大火が頻繁に起こり、広大な面積の町屋並びに武家屋敷を焼き払った史実は、世界中どこにも類例がない」と記している。
 江戸の三大大火とは明暦、明和、文化の大火。明暦の大火(1657年1月。図15)は、山の手3ヵ所から出火し、北西風により延焼。江戸の大半が被災し、江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害、死者10万7千人(当時の江戸の人口は70万人程度)を出した。
 ちなみにこの数字は、関東大震災の死者数10万5千人(うち東京府死者数7万人。焼死者数6万7千人)を上回る。当時の東京府人口390万人を考慮すると、死亡率が圧倒的に高いのである。
 次に明和(1772年2月)の大火。目黒行人坂大円寺から出火し、南西風により延焼。焼失した町数904、死者1万4千7百人、行方不明者4千人。さらに文化(1806年3月)の大火。芝車町から出火し、南西風により延焼。焼失した町数530、死者千2百人と言われている。これら以外でも死者千人以上の火事が6-8件ある。季節風の影響もあるが、被害が凄い。

 

明暦の大火

 江戸の町は甚大な被害を受けた。のみならず、江戸城は天守・二の丸・三の丸も焼け落ち、幕府の面目丸つぶれであった。10万人を超える死者を出したのは、逃げ惑う江戸町民の避難路が、隅田川で行き止まりになっていたことも大きな要因だった。当時隅田川には北方に千住大橋1本しか橋がなかったのだ。両国にある回向院は、その時に死者を葬った万人塚がはじまり。この周辺での死者が多かったのである。
 これを教訓に、幕府はそのそばに、両国橋(1659年と1661年の2説あり)、下流に新大橋(1694年)、永代橋(1698年)と隅田川の橋を立て続けに建設している。この時代、幕府は「大河に橋を極力架けるな」の施策で、隅田川には、千住大橋(1594年架設)、多摩川には六郷橋(1600年架設)しかなかったのだ。
 江戸は前記したように火事が多く、江戸城が完成した寛永14年(1637年)の1年後に本丸御殿が失火により焼失。さらに翌年、再建された御殿は、またまた失火により全焼している。防備充分な江戸城すら火災を逃れられない。
 『日本見聞録ロドリゴ・デ・ビベロ1609年』によれば「江戸の人口は約15万人」。そして明暦大火の時代には70万人程度。江戸の人口は、参勤交代の制度化(1635年)により急激に増加し、徳川家康入府の時代よりも10倍程度増えている。このような人口膨張に対して、家屋の不燃化や、避難路の整備がなされていなかったことが、人口の15%も死亡した明暦大火の悲劇を、引き起こしたのである。

江戸の町の防火対策 

1306_18_infra_03.jpg

 寛永6年(1629年)に大名火消(通常は10組1,230人程度)が、慶安3年(1650年)に幕府直轄の常火消(元禄8年(1695年)、15組で1,920人程度)、享保5年(1720年)に町火消が制度化された。町火消は火災時のみなので、常時警戒の火消の人数は大略3,200人。仕事量はよく分からないが、後記する古代ローマのほうが人数は多い。
 明暦の大火以降、いくつかの防火対策が行われた。それを列記すると以下の通りである。
①江戸城内から御三家はじめ諸大名の屋敷を移転し、その跡地は庭園等として家を建てない。
②江戸城に近い神田・日本橋の寺は、郊外の浅草・駒込・三田・芝方面に移転。寺の灯明等からの火事が多いためである。
③前記した隅田川の架橋。
④道路幅の拡張のため、道路に面した商家の庇(約2m)の切断。
⑤防火帯として、広小路や防火土手(火除地。図16)の建設。その事例が中橋広小路・江戸橋広小路・上野広小路・両国広小路などである。
⑥防火用水として、寛文元年(1661年)、町々の木戸ヵ所に計60個の水桶の常置を命じた。
 ここで、大名屋敷や寺の移転は、江戸城への延焼防止対策で強硬に推し進められた。それだけの力が幕府にあったと言うことだ。その費用は大名持ちだったから、大変であった。一方、防火帯の空き地が出来ても、それを管理出来ず、あまり進まなかったようだ。
 防火用水は、江戸の町数は約1,700町もあるので、数万個の水桶が置かれ、さらに各家屋に手桶の常備を命じた。「風が吹けば桶屋が儲かる」の語源となっている。ここで火事と江戸について面白い話を紹介しよう。
1306_18_infra_02.jpg 元禄9年(1696年)には、江戸に神田・玉川・亀有・青山・三田・千川の6上水(図17)があった。それが将軍吉宗(在位1716年-1745年)の時代、享保7年(1722年)に神田・玉川上以外の4上水が突然廃止された。これは儒官、室鳩巣の「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」という言説を採用した、と言われている。通常、防火用水は、河川・運河・上水・井戸の水が使用されるので、その選択肢を減らしているのである。全くもって非科学的話と思うのだが。

建物の防火対策

 慶長6年(1601年)の大火後、幕府は屋根を「茅葺から板葺にする」よう命じた。その後、瓦葺が流行し、町家でも瓦葺が増加したが、明暦の大火後に方針を変更した。『徳川実紀』明暦3年(1657年)に「瓦葺の事、国持ち大名というとも造るべからず」と、瓦屋根を禁じたのである。
 瓦葺禁止は、「大火の際に瓦が落下し、怪我をする」とのこと。延焼防止対策より延焼後の瓦落下対策であり、本末転倒である。すぐもらい火事になるので、「安普請の家を造れ!」だ。10余万人の死者の主な原因は火事。決して瓦の落下ではない。多分、商家の華美な白壁や瓦屋根を、贅沢と、幕閣が嫌ったのであろう。一方、茅葺や藁葺の屋根は、延焼防止の目的で土を塗るように命じている。これもよく分からない。茅葺や藁葺に、うまく塗ることが出来る訳がない、と思うのだが。
 瓦葺の許可は、やっと60年後の吉宗の時代。『徳川実紀』享保5年(1720年)に「市井家作の事、倉造り塗屋あるいは瓦屋などは、これまで遠慮せし由聞こゆ。今より後、心のままに造作すべし、畢竟、防火のためにも便あり。飛火なきためにもなる」とある。武家屋敷に対して瓦葺の使用を命じ、補助金を出したり、禄高に応じた拝借金を出したりしている。享保8年(1723年)からは江戸市中、神田・日本橋・銀座などで瓦葺・土蔵造り・塗屋(外部に土を塗った建物)を命じた。町人の負担を考慮し、瓦葺ではなく安価な蠣殻葺の使用、改善工事をした家に公役金の免除や拝借金の提供を行い、町家の不燃化を推進した。やっと道理が通る時代となったのだ。
 ということは、明暦大火から吉宗の時代まで火事が頻発して、さらなる防火対策を迫られたということである。しかし吉宗が死去すると、財政難から不燃化策は積極的に行なわれなくなり、以後、幾度も大火が発生した。
 実は不燃化対策に有効な漆喰の大量生産は江戸初期に行われていたのだ。慶長11年(1606年)、江戸城大改修の際、白壁を塗るため青梅の成木村で採れる石灰(漆喰)を供出させ、運搬用に街道(青梅)まで建設された。漆喰は石灰を焼成して造られ、微細な孔の多い材料。湿度の調節機能があり、高温多湿の我が国に向いている。
 石造りは無理にしても、瓦も漆喰もあったのだから、何故、耐火性のある土蔵造りを推進しなかったのかと思う。
 蔵の街・喜多方には約4千軒の蔵がある。明治13年の大火に懲り、土蔵造りに励んだ結果なのだ。下町など比較的弱い地盤には、土蔵造りは共振しないため、耐震性がある。安政江戸地震などの大地震で数多くの圧死者も出しているが、火災による焼死者の方がはるかに多かったのだから、と思うのだが。
 前記したように黒木は「世界に類を見ない火事の多発都市・江戸」と記している。幕府は大名屋敷や寺を移転させるだけの力があったが、それに対して、市内、特に家屋の防火対策は、十分とは言えない。そして4上水の廃止や瓦屋根の禁止などと、よく分からない施策を連発している。なぜこのように非科学的ことが行われ、耐火構造物の建設が進まなかったのか。
 「人間は環境の動物」と言われている。江戸の人々は火事という環境に逆らえないと考えたのだろうか。
 次回は明暦大火とほぼ同時代のパリ・ロンドンなどの防火都市づくりを紹介する。

参考文献
●『江戸の都市計画』
 竜門冬二。文藝春秋。1999年
●『日本見聞記 ロドリゴ・デ・ビベロ1609年』
 大垣貴志郎。たばこと塩の博物館。 1993年
●『江戸の火事』
 黒木喬。同成社江戸時代史叢書。1999年

ページトップ

最新記事

最新記事一覧へ