歴史資料

工種別技術史

工種別技術史〜鉄筋コンクリート編

 鉄筋コンクリートの歴史は、世界近代史の歴史といっても差し支えないだろう。世界各国のインフラ整備や社会基盤施設の建設において、鉄筋コンクリートに関連する技術ほど重要なものはないといって過言ではない。そこで、本稿では、「竹和会百年史 竹中工務店協力会の歴史」からの引用(一部抜粋)により、その歴史を振り返ってみたい。

 

鳶たちの華麗な働き場所

 日本で最初の鉄骨構造の建物である秀英舎の印刷工場が東京に出現したのは、明治27年(1894)のことであった。鉄骨煉瓦造り3階建てで、鉄骨材料はフランスから輸入された。これを契機に丈の高い建物が多くなり、先端的ともいえる同ビルの建築現場は、鳶職人(以下、鳶)たちの活躍する場所として一般市民にも注目されることになった。
 このように明治時代の末から大正時代にかけて、鉄筋コンクリート構造の建物が西欧諸国から本格的に導入されるようになる。そうした情勢に呼応して鳶の仕事は次第に高所へ高所へと移動していった。戦前の足場には丸太を針金で結束し、外部足場には勾配20度ほどの登り桟橋を設置し、足場板を4枚くらい敷き並べ、桟木を足場板に打ちつけていった。

変わりゆく足場と結束材

 太平洋戦争たけなわの昭和18年(1943)頃になると、鉄製品は軍需優先となり、民間用としての針金は手に入らなくなった。足場の結束材としては終戦後の昭和25年ごろまでは藁縄(わらなわ)を使用していた。
 一方、足場材は昭和35年ごろまで丸太であった。そのころから徐々にパイプ足場が使用されるようになり、丸太足場は次第に姿を消していった。外部足場の場合、箱足場、抱き足場、一側足場などがあり、用途によって使い分けされた。昭和40年ごろ、幅1200㎜と600㎜の鋼製枠組足場が開発された。

世界に誇る職人技が東京タワーを造る

 世界を驚かせたのが、東京タワーの建設であった。「命綱なしで自由自在に鉄骨の上を渡り歩く」日本の職人技と、当時の最新技術を駆使した“建設物語”が東京の空で展開されたのである。この現場に名を連ねたのが、鳶職人96人の一人、桐生五郎である。
 昭和33年10月9日、そのとき26歳であった桐生は、高さ280m付近の仮設鉄塔の上に立っていた。自分の体重を預けているのは幅15cmほどの鉄骨。塔の全体が強風で右に左に揺れている。下界を覗けば、多くの鉄の骨のはるか下に米粒ほどの同僚の姿と、まだ平たかった東京の街が見えた。前年6月に始まった作業は9割方終わり、あとは頂上にアンテナを取りつけるばかりとなっていた。この日は、その最後の大仕事。アンテナ吊り上げの決行日である。しかし、強風はなかなか収まらず、桐生は夜明け前からもう3時間も鉄塔の上で、その瞬間を待っていた。なんと自分の祝言が1週間後に迫っていた。この仕事を無事に終えなければ、惚れた女に顔向けができない。「風よ、早く退散しろ!」桐生は、ただ、それだけを念じるのであった。

地上333mで見た夢

東京タワー

 実は、東京タワーの地上270mの位置の鉄骨に、この建設工事に従事した鳶職人96人の名を刻んだ金属の銘板が取り付けられている。その中で、桐生と並んでいるのが、黒崎三朗である。このとき73歳。腕に覚えのある鳶たちが続々とタワーに集まってきた日を覚えている。自身、高さ40mの足場から転落して奇跡的に助かったことがあるという猛者。「不死身のサブ」の異名を持つ鳶である。
 当時の鳶職の日給は500円。東京タワーでは750円であった。だが、「カネは目的じゃねえ。みんな世界一のタワーを造りたがっていたんだ」と言ったという。
 もう一人、名前を刻まれているのが皆野川友孝、69歳。みごとな高所作業で見る人の心を奪った。当時、竹中工務店に入社した新入社員は、自分の仕事を忘れた皆野川の超人的な仕事ぶりに見とれたという。まだ、クレーンなどなかったころ、鳶の職人たちは己の技と勘を頼りに滑車を操り、総量4200tの鉄骨を組み上げていく。
 塔の上で柱にもたれて居眠りしたり、梁にとまる鳩を捕まえようとする連中もいた。その真似をしようとした皆野川は「途中で足がすくんだ」と思い出を語る。
 そんな鳶たちのなかで、いつも「てっぺん」で仕事をしていたのは、やはり桐生であった。17歳で鳶になり、常に鉄橋や発電所などの大仕事に係わってきた。どんな危険な現場でも、おじけつかない鉄の心臓と、周囲への気配りができる冷静さを、持ち合わせていた。

 

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